はじめの言葉 奥入瀬の森

 私は青森に生まれ育ちました。ですが、その風土の持つ力や生きる力を感じるようになったのは、ゆずりはを始め、多くの作家に出会いいただいた言葉と、奥入瀬の森に根づく生命力が私の中を交互に行き交うようになってからでした。私が奥入瀬を通り、屈と家を往復するように。

 十和田湖畔にあるゆずりはと白宅の聞は車で 1時間半、奥入瀬はその途中にあります。雨の多い梅雨のころ、森はいちばん元気になります。雨にうたれた葉っぱは水を吸って重くなり、頭を垂れるようにたわみます。色は濃くなり、水にぬれた匂いが広がる。そんなとき奥入瀬を通ると、車の中にいるのに体の中に水が染み込み、全身に行き渡るのを感じることがあるのです。気持ちがささくれいら立っているときはなおさらのこと。とんなに自分が乾いていたかを知り、同時に、森の力にはっとさせられる。体の細胞ひとつひとつに水が注がれ、森の生命力が私をよみがえらせてくれるのです。森が私を包んでくれている、森に守られている、と思いました。

 夏の森には蒸すような匂いが立ちこめます。夜、車のライトの向こうをキツネがすっとよぎったことがありました。水を飲みに湖におりてきたのでしょう、こちらをふっと向いて湖側の木に隠れ、そのときライトの光に照らされた日がキラキラと輝き、去る姿がきれいな曲線を描いて:::。私の前から去る姿にもかかわらず、勇気と安堵をいただき、あたたかい気持ちになりました。キツネの行った先にはキツネの世界がある、そう想像すると、自分はひとりじゃない、と思えてきたのです。それ以来、キツネに出会えないか探している自分がいました。

 どこからともなく山が色づき始めたときは:::。風雨が激しく吹いたあと風が収まり、葉がゆっくりとスローモーションのように落ちる様を見たときは心を奪われました。たくさんの葉が敷きつめられ、車のタイヤをのせるのがもったいないくらいの葉のじゅうたん。顔をあげると、いままで葉で見えなかった空がそこにあることに気づき、月がこんなに近くに。月と追いかけっこするように、まだ来ている?と確認しながら帰ったこともあります。いや正直にいうと、月にずっとついてきてほしかった、見守ってもらいたかったのです。またこのころ、山の起伏がはっきりと見えるようになり、山があり、谷があることにも気づかされます。

 まだまだあります。一面に広がる雪景色に、少しずつ気温がゆるみ雪解けを始めた森に、心なしかピンクがかつてきた山にも・・:。そのときそのときに見せてくれた自然の景色にどれほど救われたこそとでしょう。偶然の重なりが生み出す光景に「わーっ」とひとり車の中で何度も声をあげました。その度私は不思議と安堵感に満ち、ひとりじゃないって思うのです。締めつけられていた気持ちがすーとほぐれていくのです。森の営みは何度も始まり、また繰り返されます。大きな木の下にいて木肌に手を触れ、高い木の上をひっくり返りそうになって見上げると、自分が小さく感じます。それは悲しいことでは無く、大きな自然のひと粒、大きな自然に包まれながら生きている、大きな流れの中の点なのだ、と思い、心が解きほぐされて行くのです。

 友人が言いました「雪景色がきれいなのは、雪の下にたくさんの事情を包み抱えているから」と。だれもが生きていく中でいろいろなことを経験します。苦しいこと、悲しいこと、人にはいえないような深く心に負った傷:::。だから輝く。私にはそう聞こえました。どんなに励まされたことでしょう。

 この本を手にしてくださったみなさまの人生にも、きっと山も谷もあったことでしょう。雪の下の事情のように。山も谷もあったからこそ輝いているはずです。そして大きな何かに守られているはずその輝きを次の世代に伝え、受け継いでいくために、今私たちがしなりればならないことがあるのではないでしょうか。これからの自らの生きる道をもう一度見直すために、この本をお役立ていいただけると幸いです。