女性が生き抜く道 赤屋敷タマさん 帯作り

 とある作り手のところで赤屋敷さんが作った帯を見せていただきました。昔の大福帳をこよりにして織った帯。古びた紙にはさみを入れ手で一本一本こよりにし、それを緯糸に、経糸には絹を使い織り込んだもの。墨の文字跡が細く模様を作り、ところどころに赤い筆文字の跡が見えます。そこに苦かれていたでしょう文字の意味と、そこにあった生活が時代を超えて、今自の前にあることがとても尊く感じたのです。時をちりばめ生まれた模様が光を放ち、輝いて見えました。


こんなときに大福を・・・

 もう冬に近いころ、娘とふたり、赤屋敷さんを訪ねました。国道からだいぶ小道を分け入り着いたところは、かなり遠く感じたのを覚えています。私は、赤屋敷さんの手元にある大福帳の帯を見せていただきました。かつてある作家さんのお宅で見た、あの帯です。それを求め、お代を支払い、領収書をお願いしたとき、彼女は小さく言葉を発し、自分のことを諮り始めました。「私、字が書けないの:::」。こんな大事な話の始まりに、隣で娘は大福もちをほおばっていて:::。ただ、そんなあどけない姿の娘に、若いころの自分を見ているようで、懐かしさを覚えました。親としてはほほえましくもあります。この先、いつか娘も家族を持つことがあるでしょう。そのとき、このタマさんの話を聞いたことがいい思い出になり、聞いておいてよかった、と思う日が来るはずです。そうなってほしいと願う気持ちで、タマさんの次の言葉を待つ自分がいました。


女の生きざま

 「昔、食いぶちを減らすために嫁に出されたんだ。食わせてもらえなくなったら帰ってきてもいい、っていわれて嫁に来たの」。青森、岩手にまたがる南部地方は、ヤマセという気候の影響で始終飢鐘に見舞われた、と私は祖父母からよく聞かされたものです。「本当に大変なもんだったんだ。貧乏なうえに、家の中に自分のいるどごなかった:::」。“女は天地三界に家はなし“という言葉を思い出しました。でも私、ひらがなは書けるの。だれっさにもしゃべらないごどを紙さ書いて、たんすの隅っこになんぼもしまったもんだ。でもいづの聞にがそうしなぐなった。気がついだらたんすの中さ入れでだのも忘れでらった。こないだそれを見つけて、焼いだんだ:::。だって、今が私、いちばん幸せだと思ってるがら」



生きる道

 赤屋敷さんの苦労の跡には、やさしさと、本当の意味での、人として豊かな強さがありました。科の木と天蚕を自ら育て糸をとり、200年を経たとんくり林にちなんで、住まう山の辺りを“どんぐり村”と名づけたタマさん。使うものを最初から自身で作っていくことを楽しみ、幸せだと思う彼女のまわりにたくさんの人が集います。タマさんは、作る喜びにあふれた人。作業場を出ると、いつの間にか辺りは真っ白になっていました。車に積もった雪を娘とふた、何も語らずかき下ろしました。白い地には足跡ひとつありません。私たちは、ように進んでいくのでしょう。車が進み2本の道が生まれました。娘はこの話をどう受け止めたのか。きっとわかっているはずです。無言がそう語っていました。先の姿とは大きく違います。今度は、どんぐりだんごを作るころ、訪れてみましょう。そしてタマさんの大福もちを口いっぱいにほおばってみたいな。