熱意 菅原サト子さん 籠作り

 ふたり連れの年配の方が、ゆずりはの小さな門口で、こちらの様子をうかがっていました。大きい荷物を持ったおばあちゃんとおじいちゃん、それが菅原サト子さんとの出会いでした。聞けば、岩手の奥地から早朝バスを乗り継いで、ゆずりはを目指し、十和田湖まで来たといいます。大きな袋の中は、自分たちが作った籠が6点ほど。同じ村の仲間で作ったものでした。ひとつづつ取り出し、小さなテーブルの上に並べ、ゆずりはで売ってほしい、というのです。しかしどれもよいものには見えず、いいにくいことですが、そのまま思ったことを伝えました。


はじまり

 「ぜひ悪いところをいってほしい、何もすぐ売れなくてもいい、いつかひとつでも売ってもらえるものができればいい」。その年齢からは想像できないほどの熱意と言葉が返ってきました。編み方も、口の始末も、手のつけ方にも、思うところがたくさんありました。なぜここまで一生懸命になれるのでしょう、不思議でした。そこで、ひとつずつ感じたことを話しました。遠慮もありましたが、その気持ちは、意見を述べ、向き合うことで消えていきました。「じゃあ、今日聞いたことに気をつけて作り直してみます」。私のような弱輩者の言葉を素直に受け止めすぐに前向きな姿勢を見せ「でき上がったら送りますので、悪いところに印をつけて送り返してください。なんともありませんよろしくお願いします」と頭を下げられました。3か月ほどたったでしょうか、作り直したひとつ目の龍が到着しました。その後約1年、悪いところに印をつけ送つては直されたものがまた来る、というやりとりが何度も続き、とうとう菅原さんらしい、やさしく、かわいいくるみの龍ができました。


生き甲斐

 私はサト子さんを訪ねることにしました。岩手県東和町の奥、少し高台にある、馬を育てていたという広い敷地。そこに建つ新しく立派な家がサト子さんの家でした。陽の当たる縁側には、でき上がった龍が気持ちよさそう。今は使わない馬の納屋がサト子さんの仕場です。ご主人は車椅子の生活で、時折介護施設に通っていたようです。開け放した窓からは、昔馬が走り回っていただろう広い土地が見渡せ、春に植えた草花がほころんでいることをサト子さんは喜んでいました。そして、新しい家を息子さんに建ててもらったことをとても誇りにしていました。サト子さんは地元の人ではありません。関西からこの地に嫁いできました。そういえば、東北なまりがまったくといっていいほどありません。彼女が龍作りにあれほど懸命な姿を見せたことの裏には、自分の置かれた境遇、地元の人とのつきあい、夫のことなど心にかけることのある暮らしの中で、自分に残された時間の生き甲斐を持ちたかったのではないでしょうか。他の地の人だからこそ龍を編むための素材、技に感動し、引き込まれていったのではないでしょうか。それほど新鮮な目で龍作りを見ていたような気がします。そして技を知る村の人たちに声をかけ、自分の家の納屋を開放し、お年寄りが集まり手仕事が始まったのでした。


激しい熱意

 ファクスが届きました。「昨夜家、か焼けてしまいました。何もかもなくなってしまいました。すみませんが、当分の間龍は作れないと思います。申し訳ありません」。すぐさま受話器をとってサト子さんに電話しました。つながらないかもしれないでも・・・・・・。サト子さんが出ました「ファクス、見ました。サト子さんは大丈夫でしたか。那さまは?」。たて続け,に聞いていました。「昨夜遅く寝つけず、ならば龍を作ろうとロ時ごろ納屋の仕事場で龍を作っていました。『火事だあ!』と納屋の戸をドンドンたたかれ窓の外を見ると母屋は火に包まれていて手のつけようがなかった。何ひとつ取り出せなかった。主人はたまたま施設の日で留守だった。私もゆずりはさんの仕事をしていなかったら、焼け死んでいたかもしれない。それだけは、感謝しているんです」。こんなときまでゆずりはのことを思いやってくださることに恐縮しました。同時に、その気丈さに安堵も覚えました。次の日、龍が届きました。「今日、昨日の夜にでき上がった龍を送ります。悪いところがあったら印をつけてください」。かすれた字さえ痛々しく思える文面に、最後に加えた一文の気丈な姿勢。不思議なくらいの熱意に驚きました。


親子の絆

 春先のことでした。北国の春はまだまだ寒いころ。知らせを聞き、大阪から駆けつけた息子さんを前にサト子さんは謝りました。「せっかくあんたが建ててくれた家、焼いてしまった。申し訳ない」。すると息子さんは「なくなったものは、また作ればいい。なにより、母さんが俺の目の前にいるだけで十分にありがたいから」といってくれたそうです。涙をこらえ「いい息子さんですね」と声をかけました。「私こそありがたい。幸せです」。サト子さんは電話の向こうで泣いていました。電話の声がふるえ、胸が詰まりました。家は失いましたが、親子がかけがえのないあたたかい粋で結ぼれていることに感動しました。その後火災は放火との疑いがささやかれ、何’度も消防隊による調査が行われたそうです。そして「たとえ放火でも、放火ではない、といい切った」といいます。村の中での菅原家の存在、サト子さんの立場を思い返してみると、放火の疑いもあったかもしれません。でもあくまで、この地で生きていこう、暮らしていくのだ、というサト子さんの固い決意と信念があるように思えました。


決意と覚悟

 その後サト子さんから届いた簡は2?だけでした。さまざまな心労が重なり、年齢と環境の変化がそうさせたのでしょう。それでも何度かやりとりをするうち、作りたいという気力と思いは持ち続けているのが感じられました。そうなることを目標にがんばっているようでした。度々入院をされるようになってからその思いと気丈さに変化が表れました。その都度お客さまに状況を報告してきました。まだできません、まだまだできません:::何度もお伝えしました。それから3年を数えるころ、私はお客さまに、龍をお届けできないと伝えることを決心しました。「すみません。お詫びとお預かりしている代金をお返しします」。なかには、いつまでも待ち続けるのでお金は預けておくといってくださった方もいました。加えて「サト子さんには、注文を取り下げるつもりはありません」と伝えました。お客さまに注文をお断りしたことを、サト子さんに話す気もありません。だって、サト子さんの生き甲斐なのですから。いつまでもサト子さんのやり甲斐を残しておきたかった。人に喜ばれ、待たれていることがどんなに支えになるか、それは私も同じですから。


今もなお

 それからまた時聞が流れ、お客さまから修理の龍が送られてきました。サト子さんの龍です、手が壊れている。あらためてサト子さんに連絡をとろうとしましたが、それはかないませんでした。事情を他の作り手に話し、お直しを快く引き受けていただきました。「自分が作ったのも、人が作ったのも、なんも変わらねえ。おらでよければ直してやる」と。直していただいた龍は、持ち手が新しくなり、新しい素材の色と、もともとの使い込まれた本体の風合いがくっきりと分かれ、作り方も、あきらかに違う人のものでした。でもそれが、とてもとても素晴らしかった。一線を超えた尊い表情をしていました。さまざまな事情を超え生まれ変わったお客さまの龍を、自分のそばに置いておきたい衝動にかられました。本気でお客さまに譲っていたたこうかと考えたくらい。でも、それはありえないこと。龍は、無事お客さまのところに届きました。送るため箱に入れるとき、」れがサト子さんの龍とのお別れのような気がして、そっとなでました。お客さまにも電話でその思いを伝えました。「大切に使います」。そういってくださいました。今も、サト子さんとは連絡がとれません。注文はしたままです。