職人の志 工藤一三夫さん 馬具バック

 十和田周辺は古くから馬の産地。北国の暮らしの中で家になくてはならない労働力、農耕馬として飼われていました。かつて人と馬を結んだ鞍や手綱など、馬具を作っていた人は今どうしているのでしょう。すっかり馬の街要がなくなり10年ほど前に馬具田町は全国に数える程度にしか残っていませんでした。しかも本来の仕事はほとんどなく、帆布を縫うなどで生計を立てているといいます。でもきっといる。馬の存在が大きかった地元に職人はいるはずです。なんとか馬具に携わる人に会えないかと思っていたある日、意外にも身近なところで願いがかないました。


馬は家族

 私の幼いころ、祖父はお盆の墓参りにまず裏山に行きました。その杉林の中に小さなお堂があり、わが家にとってかけがえのない愛馬の墓があると知ったのは大きくなってからのことでした。「いい馬だった。あれのおかげで5人の子どもを学校へゃれた:::」。しみじみ語る祖父の表情は、昼夜を問わず厳しく労働し、生活を支え、苦楽をともにしてきた馬に対する感謝の念にあふれでいました。そして、私たち親子が住んでいた家の一角にある新しい部屋は、かつてうまやだったと、そのとき初めて気がつきました。


願うから出会えた

 雪の降る日のこと。とっぷりと日が暮れ、足早に帰途についたとき、暗がりの中にぽつんと裸電球のような明かりがゆらめく庖がありました。届先には犬の首輪や詑入れが下がっています。馬の影はありません。でもそのとき、もしかしたら馬具職人かもしれない!と直感が働きました。いつも作家のところへ向かう道すがら、私が今まで気づかなかっただけでした。私にそこまでの思いがなかったからかもしれません。今思えば、自分次第で物の見え方が違ってきます、願わなければ見えてこないものなのですね。迷うことなく直行しました。約束もなく手土産も持たず、吸い寄せられるかのように戸を開けました。そんな私を工藤さんは快く迎えてくださいました。帆布で工事作業用の道具袋を作りながらバッグの修理に来たお客さまに丁寧に応対されています。その姿が印象的でした。祖父の代からの馬具屋は、当時70歳を過、ぎた工藤さんと兄弟で営まれており、幼いころから馬具の仕事を見て叩代から皮革に手をかけてきたそうです。この仕事をして、近ごろいちばんうれしかったことを尋ねると「孫のランドセルを作ってやったことかな」と穏やかな笑顔を見せてくれました。


心のすれ違い

 この人に本来の馬具の仕事をしてもらうことはできないでしょうか。従来の馬具でなく、
その技術を現代の生活に生かすために。できるなら、かつて人と馬をつないだ馬具のように、使い込むほどに味わいのある手仕事を:::。願わないではいられませんでした。ふと奥の戸棚を見ると頑丈そうなカバンがありました。今は使われなくなった銀行員の集金カパン・・・。そう、バッグができる!それからはパッグのデザインで頭の中はいっぱい。山を越えて工藤さんに会いに行く日が続き、車にガソリンがないことをすっかり忘れて、怖い思いをしたこともありました。デパートのバッグ売り場の話をし、雑誌を見、構想を練ります。当時40過ぎの私と70過ぎの工藤さんの感覚をたぐり寄せて、現代の人に使ってもらえるものを考えることは、なかなか容易ではありませんでした。「今日は田中さんが来る日だと思って、楽しみにしているんだ」という工藤さんの言葉で、その距離はどんなに近く感じられたことか。とはいえ現実は、バッグのどんな形を提案しても工藤さんは浮かない顔。私は目新しさ、やわらかさ、軽さだけに走り、提案をしていたのです。「はつ」としました。


馬具職人の仕事

 彼は決してできないとはいいませんでした。今思えば、職人だからこそ、何でも作る、作つてやろうという覚情だったのだと思います。私は軽薄でした。彼は馬具職人なのです。馬具は、人と馬を結ぶもの。厚く硬く丈夫でなければその重みに耐えられません。縫い目は必ず表にあります。その技を生かしたものでなければならなかったのです。頭でわかっていても、心ではわかっていませんでした。知識は心があって初めて生きるのですね。それを境に霧が晴れるように踏み込んだやりとりができ、お互いの気持ちが通じ合うようになりました。きっと仕事の大変さを知らないのをいいことに、多くの無理難題をいっていたに違いありません。「私は、田中さんの注文には何でも応えたい。それが職人だから」。工藤さんはそういってくれました。その気持ちが、たとえできなかったとしても、どんなに心強くうれしかったことでしょう。完成まで数年かかりました。厚さ3ミリの一枚のヌメ革から傷のないところを選りすぐり、馬具ならではの技術を生かしたシンプルなバッグ。手縫いの縫い目が表に出ていて、使い込むほどに味が増す、丈夫でごまかしのないもの。それはひと針ひと針、馬具職人の誇りと思いが形になっているようでした。


無心の力

 ある日工藤さんが「私、娘にしゃべったの。『70過ぎて、またこんな仕事ができると思わなかった。もう10年早く田中さんに会っていればなあ』って。そしたら、娘がさ『お父さん、そうでなくて、あと10年長生きすればいいんじゃない?』ってしゃべられでさあ」。前掛け,姿でそんな話をしてくださったとき、胸に込み上げるうれしさで、いいようのない幸せを感じました。高齢の方の手仕事には、無心の力がある気がします。作ることが、今の工藤さんの人生そのものだと思えます。自分の作品を手にしニツコリ笑う顔は、戦争と激動の時代を生き抜いてきたたくましさのせいでしょうか、と思うほど、透き通っていました。生きていくとき、自分が必要とされている実感、喜んでもら加えていること、待ってもらっていること、世の中とのかかわりのなかで、役に立っているといえることが大きな支えなのだと思うのです。「壊れたら直してくれますか?」と問うと「もちろん。でも、壊れねえびょん」と津軽弁で答えてくれました。


 それから6年。「娘がさ『私もお父さんの仕事、やってみょうかな』っていってさ」と、ゆずりはに娘さんといらっしゃいました。工藤さんの手仕事を受け継いでくれるなら、なんとうれしいことでしょう。拍手したいくらいでした。今も私の手元で工藤さんのパックは活躍してくれています。今では新しい形も作れるようになり、ゆずりはを訪れるお客さまに喜んでいただいております。私が体調をくずしたと知つては電話をくださる工藤さん。「元気ですか?心配でさ。よかった。さっぱりしました」の声がいつも耳に残っています。工藤さんも、どうぞお元気でいてください。私も負けないよう歩みます。仕事を通してですが、深い粋を感じます。工藤さんから携帯電話に何度か着信がありました。なかなか出られずやっとお話しすると「わだしこのごろ、寝られなくてさあ。あんだのせいがもしれませんよ。一介の馬具職人がこごまで来れだがと思うど、夜中、涙が出てくるの。田中さんど話っこしたぐなってさあ」。なんとうれしいこと。工藤さんの電話の声は涙でかすれていました。彼は数日後、県から表彰されることになっていました。今ではテレビにもよく登場するほどです。2月16日、私の誕生日に「田中さん、誕生日でながったあ?」と工藤さんらしい“おめでとう”をいってくれます。仕事以上の深い紳を感じる人です。