昭和村 からむしが紡ぐ絆

 福島県昭和村。東北の商、奥会津を私が初めて訪れたのは冬の日でした。車で約7時間というひとりでの長時間運転は、今までにないもっとも遠い場所。車の窓に広がる景色は北東北とそう変わりはないのにスライドのように記憶に残っています。日米雪地帯で、細い道路わきには雪が高くむまれ、屋根の雪と軒下の雪がくっつきそうなほど。雪にすっぽりと綴われている小さく静かな村は、“からむし”といわれる、極上の麻糸を作り織っている村でもありました。


からむしとの出会い

 もう10年以上前のこと。昭和村の本名民子さんという女性がゆずりはを訪ねてこられました。黒い緋のからむしのコトを羽織り、着尺を3本携えて「ゆずりはさんが北東北のものだけを扱っているのは知っています。でももう、からむしは残れないかもしれません。どうか力を貸してください」。目に涙を浮かべ訴える言葉からなみなみならぬ思いが伝わりました。着尺を見せてもらいました。正直、現代に合う柄ゆきではなく、1反70万円を超える高価なも。私は扱う自信がありませんでした。言葉につまりました。ただ、反物の糸の美しさだけは知識のない私でもわかりました。特に生成りの1反は美しい。どうしていいかわからない、でもここになにかある:::。そういわれているようにも見え「もしよろしければ、少しの間私にこの1本を貸していただけないでしょうか」。そうお願いすることが私のできる精一杯の返事でした。預かった反物は、引き出しの、聞けるとすく見える場所に置きました。日がたつでも折に触れ気になり、何度も引き出しを開けました。自然で美しい光沢を放っからむしに触れたくて取り出す。なんとかならないだろうか:::。昭和村を訪ねる決心をしたのはその3か月後でし。


心の命

 本名さんは、十字績みをしてきたいちばんのおばあちゃん“おまきばあ”を紹介してくださいました。遠ければ遠いほど、出会えた喜びは大きい。そう思える出会いでした。川べりに建つおまきさんの家は、きちんと除雪されていました。彼女は加歳を超えていたでしようか。ひとり暮らしの家のこたつに膝を入れたとき、壁に目が行きました。掛けられたカレンダーの多いこと。村の電器屋さん、燃料居、商庖など、片手では足りません。どうしてこれほどのカレンダーを?「村で世話になっている人たちが来たときに飾っていないと申し訳がないから」。村人との距離の近さを感じさせる返事でした。さらに、筆で書かれた“火の用心”も何枚か張られています。小学校の子どもたちが書いたもので名前も添えられており、墨跡がとてもあたたかい。「お淋しいでしょう?」。ご主人を亡くされたおまきさんを気づかうと「うーん、1年たってもよぐねえの。でもこれつかめばよくなる」。糸を績みかけのからむしを握ってみせました。からむしがあるうちはひとりでもやっぱりここに住みからむしを続けたいと。「これさえあればじさま死んでも、なんも淋しくねえ」。おまきさんは若いころからずっと苧績みをしてきました。ご主人と同じくらいの年月をともに過ごしてきたからむしは、心の命なのです。






畳の匂い

何度も私はおまきさんを訪ねました。村に行く度どんなに時聞がなくても会いたかったのです。「お久しぶりです、お元気ですか」。畳の上に手をつきあいさつをすると、おまきさんはうれしさを抑えきれず、言葉にならない声で「うーん」と目をうるませました。こたつの上にはいつも手作りの揚げもちと漬物が用意され「ハイカラな料理はできないけれど、だんこん煮、ぜんまいの油妙め、食べていって」と。雪のない聞に採った山菜や野菜などの保存食です。夏の目。部屋に上がるとぶーんといい匂い、新しい畳の匂い。「一緒に暮らそう」。そういう息子さんにおまきさんは「都会へ行っても楽しみがない、からむしのあるうちは」と頼み、畳を替えてもらったそうです。「わがった。畳は叩年もつ。間五と母さんと競争だな」と加えて。おまきさんは「この畳の上で、からむし握って死ねたら本望だ」と静かにいいます。振り返ると、おぽき(糸を洗う桶)から出したばかりのからむしの糸が、畳の上に敷いた新聞紙の上で清らかに輝いています。開け放たれた古い窓からの光を受けて、静かな決意に満ちあふれたように。そばにはカラスのコップにもも色のしゃくやくが一輪、生けられていました:::。


大切なのは、誇りを持つこと

 今、私は昭和村の依頼で、昭和村のもの作りの手伝いをしています。村での講演も何度か行いました。村のパスが村内をまわり、たくさんの人を会場まで運んでくれます。内容は、村の高齢者の生き甲斐守つくり。外からやってきた私だからいえることでしょうが、どんなものを作ればいいかを考え、デザインすることを話す前にまず、この素晴らしい昭和村に誇りを持ってほしいことから話しました。「日本中でいちばんの山奥が昭和村だという人もいます。だからこそ、今大切な、素晴らしいものがここにある。自分を、ふるさとをよく知ること。それに気づくこと、そこから始まる:::」さまざまなたとえを加え、話したつもりです。会場に来てくださった方のほとんどが高齢者ですが、2時間の問、目をキラキラと輝かせ」ちらに気持ちをしっかり向けて聞いてくださいました。充実感のある講演でした。アンケートには「長く聞いても眠たくならなかったのは初めてだった」とありうれしかったです。


村の営み

 村には、まだ相互扶助がきちんと残っています。昔は田植え、稲刈り、屋根のふきかえ、その家々の出来事にはお互い助け合い、それを“結”と呼びました。そんな人とのかかわりが雪下ろしゃ下水あげなどのときにも、普通に行われています。おまきさんの家がきれいに除雪されていたのもこのためです。雪に閉ざされる農閑期や、高齢の人たちはよく“お茶飲み”と称して、それぞれの家を訪ね合い、おしゃべりをするなど交流を持っています。人との距離感を意識しながら生活があり共通した道徳心が存在するように思えました。ある老人に昭和村の好きなところを尋ねました。すると「う? 昭和村の人はみな、身内みたいなもんだ」と返ってきました。今この時代に聞ける言葉として、とてもありがたく、強く印象に残っています。


織り姫

 昭和村は過疎化が進んでいます。地域おこしのために、技を絶やさないためにも“からむし”織り制,度Hを作りました。全国からからむしに携わる人(「織り姫」と呼びます)を募集し、村からの補助で2年間昭和村に住まわせ人材を育てます。からむしの仕事は本当に気が遠くなります。村に来た織り姫は、そのすべての仕事に携わります。高齢で使えなくなった人の畑を借り、焼き畑のための干し草を用意する、5月に焼き畑を行い、本来は男の仕事である垣根を作り、7月にはからむしの刈り採り、苧引きをし、原麻を作り、苧績みし糸を作る、織る:::。それらを高齢者に教わり、一緒に仕事をしていくのです。からむしに明け暮れるなかで、村人は織り姫を孫のように思い、すでに村を去った織り姫の」とまで身内のように話します。「若さにつられつらい仕事もそれほどに思わず“ふわ~”とできてしまうそれに張り合いがある、体にも気持ちにも助けられている」と何度もくり返していました。織り姫同士は姉妹、織り姫とじいちゃんばあちゃんは血を分けた、ではなく、からむしを分けた親子なのです。


新しいからむし

 昭和村の人たちが自分たちの労働着を織るために使っていたという地機(高機と違い、織りとの一体感を味わいつつ地に座りながら織る)で織るからむしから私は目が離せません。最高級の麻、越後上布の材料として作られたからむしを地機で織る、かつての暮らしの知恵と美の合体です。聞けばこれも織り姫と村人との交流から自然に生まれたものだそうです。古くからからむしに携わってきた人と、外から来た、若くて新しい人の視点を重ね合わせた交流は、伝統を新たなものに変え、伝え、残すという紳を持っているのです。それが、時にローカルに時にグローバルに、足元を見るから広く意識を高めることができます。ただ、そのバランスが大切ですが。村の人々の暮らしに残る尊さとともに、からむしを柱に村人の手仕事を現代に提案し少しでも伝え、残す手伝いができれば幸せだと思います。


再びおまきさんを訪ねて

 先日の講演のあと、またおまきさんを訪ねました。おまきさんは大腸ポリープの検査を受け、ひとまわり小さくなっていました。本名さんが「おまきばあ、田中さんが来るの、数えて待ってたものなあ」といい、私はおまきさんといつもどおり畳の上でお辞儀をし、握手をしました。「ふーん。会えでうれしい」と黒縁眼鏡の奥で涙ぐみました。そして眼鏡を上げ涙をぬぐいました。こたつの上にはえごまのおはぎがたくさん作つでありました。ばあさまのだんこん煮も。冷たくなったおはぎは来るのに遅れてしまった私を待ちきれなかったのですね。食べきれないおはぎやおかずをお土産にいただくことにしました。「食べなさい」というすすめに遠慮した言葉を返したとき「今度はないかも:::」と小さな声でいいました。「私はあなたのことを、十和田の娘だと思っていますよ」といってくれたのが本当にうれしかった。でも今回、確かに聞」えたあのひと一言が気になって仕方ありません。その日、宿で冷たくなったおまきさんのえごまのおはぎを飲み込むようにいただきました。おまきさんのからむしの神様がそこにいるような気かして。おまきさんが私を待っていてくれた気持ち以上に、私はおまきさんのからむしの神様に生きる力を授けてもらいました。