おわりに

 自ら作り手を訪ね、会い、見て、話を聞き、その気配を体で感じ取るため繰り返した小さな旅は貴重な時間でした。今あらためてゆずりはに並ぶ作品を見ると、思い出とともに、ものに作り手の顔が重なります。

 作家の方々には多くの事情がありました。それぞれの人生を歩みながらもの作りをする、その立場をできるだけ理解して作品をいただき、信頼関係を築いて初めて作品の提案ができました。作品をただ広めるのでなくその方の作家活動がよりよいものになるように守りながら伝えていきたい。高齢の方には心の負担にならないように、主婦の方には家庭でもの作りがしにくくならないように、人人同士のおつきあいをさせていただきました。

 ゆずりはが助けていただくことも、数多くありました。支払いの繰り合わせがうまくいかず「田中さんが大変だったら、私も楽でないけれど辛抱できるから」といっていただいたときは胸が熱くなり涙がこぼれました。「田中さんにとっては作家170人への線かもしれないけれど、私からは田中さんへ1本の線なの」と、気づかいの届かないことに落胆させてしまったこともあります。知らずにかけた電話が作家本人のお葬式の目だったことも。作り手にとって人生の節目のような出来事、心の中の葛藤は、長い時間向き合ってきてわかるのかもしれませんが、それが手仕事に映ってくるような気がしました。そして時がたつにつれ、新たな魅力に変化していくように思えました。

 その出来事に感謝し、ただものとしてではなく、私が作家との出会いや自分の休を通して感じたこと、思い、意味を伝え、使ってくださる方がご自身の価値観を築いて長く愛用していただけるよう、心を込めて紹介したいのです。ゆずりはにある作品は必ずしも生活に、必要なものではありませんし、決して求めやすいものでもありません。世間にはものがあふれ、これでなくても生活は十分間に合います。だからこそ、人の手で生まれたものが、大切な何かを語っていることを伝えていかねばならない気がします。手仕事はめぐり来る季節に自然の素材を求め、作り手の肉体と思考、魂が注がれたもの。同時に、現代まで育まれた背景に現代人の私たちが忘れてはいけない何かがあるように思えてならないのです。ゆずりははものは売っていますが、心を買っていただいているのかもしれません。

 東北の手仕事とかかわってきたこれまでのことを娠り返る庖主のお話会でのこと。曲げわっぱを取り上げ、「東北を誇りに思います」と話したとき、とめどなく涙を流した方がいました。その方は勘当同然で秋田を離れ、叩年以上ご両親と音信不通だといいます。「秋田のことをこんなにありがたく語ってもらったことはなかった:::。秋田に帰りたくなりました」といってくださいました。これほどまであふれる涙になったのは、心の中にふるさと があったからではないでしょうか。はるか昔に感じた、身を包んでくれるような空気と自然をはらみ、人と人とがつながってきたぬくもりが、懐かしい手仕事に触れ、よみがえったのだと思います。手仕事は心のふるさとをよみがえらせてくれるものふるさととは、土地のことではなく心の中にあるもの、そう教えられました。

 帰り際、握手をして手を握り返してくるカに、逆に私がカをもらっているようでした。私も自ら進んで東北の手仕事を紹介するという仕事に携わったわけではありません。嫁いでから自分というものを見つけられずにいたなかで「ゆずりは」に出会えたことに感謝しています。妻であり母であり嫁であり、旅館の女将でもあるという立場での経験で感じてきたことが、手仕事のものをはさんで作り手の話やお客さまの話を伺うとき、心の中でいい形にふくらんでいくのを感じました。種を受け止める土になっていくような感覚です。私は、本当に東北の青森に生まれでよかったと思います。厳しいといわれる自然にも、風土に秘められた生命力があることを感じられるようになりました。そして、人は何で生きるカを紡いできたのだろう、と。

 ゆずりはという木は葉をつけたまま冬を越し、春、新芽が出るとそれを見届けたかのように葉を落とします。次の世代の命を育み、つなぎ、自らは潔く次の生き方を見いだして。これは、私たちの祖先が育んできた手仕事に新たな命を吹き込み、若い世代に引き継ぐことと同じです。また、私たちの人生においても同じこと。そして、伝えなければならないのは、グ生き抜いてみせることヘこれが私たちの役目ではないかと思っています。